リストカットをした無数の切り傷が走る手首。裸の体。あるいは顔。どれも、いまの私……。10〜20代の女性たちの姿を真正面から静かにとらえた岡田敦さん(28)の写真集『I am』(赤々(あかあか)舎)がこの春、第33回木村伊兵衛写真賞を受賞した。なぜ彼女たちは生身の姿をカメラの前にさらしたのか。
■岡田さん 答えの出ない「生きる意味」問い続け
05年2月上旬、東京都中野区にある東京工芸大学内のスタジオ。全裸の女性(20)のスリムな体は、少年のようだ。ライトを浴びながら、両腕の包帯をゆっくりほどく。「昨日も切っちゃって」。はにかみながら一番下のガーゼを取ると、透きとおるような白い肌に無数の傷が現れた。
「じゃあ、始めます」と岡田さん。それから4時間、CDラジカセから人気女性ボーカルの歌声がかすかに流れるなか、シャッター音だけが響いた。終了後、モデルは大粒の涙と「ありがとう」の言葉を残し、東北行きの夜行バスが待つ新宿駅へ向かった。
■20歳女性、自ら被写体に 「何かが変われば」
発熱の危険因子
受賞作『I am』の撮影協力者約50人は10〜20代の女性で、半数以上が自傷行為経験者だ。顔と体は別々のページに掲載し、誰が切っているのかはわからない。
岡田さんはモデルとほとんど会話しなかった。「僕はカウンセラーではないので。ありのままを受け入れる姿勢でカメラを構えたのは、風景を写すのと一緒でした」
モデルたちは、03年発売の写真集『Cord』(窓社)を見て、メールを送った人が多い。この本の被写体は、自傷行為をイメージさせる物だった。血がついたカミソリ、羽のちぎれたチョウの死骸(しがい)、大量の向精神薬などが真っ白な背景に浮かび上がる。息をのむような作品集だが、若い読者から反響が次々届いた。〈安全ピンの写真を見た途端、無意識に泣いていた〉〈恐怖と同時に優しさも感じ、助けられている〉
bodyschema痛み
岡田さんは大阪芸大1年生のとき、故郷の友人が自ら命を絶ち、自分も心のバランスを崩したことがあった。そのころパソコン上にある膨大な自傷系サイトを知る。〈今から切ります〉〈死にたい〉という重大なメッセージが、見えない世界に発信され続けている。「彼らの目に映る世界は、大人たちと違う。それを再現して、心に届くものを作ろうと思った」
次は人間を撮らなければと思っていた岡田さんは、『Cord』の反響の「私を撮って」という一文に背中を押され、被写体を募り始めた。
熊本県の主婦(26)は当時、専門学校生。偶然書店で本を手にした。「一晩に1ページずつしか読み進めないほどつらかった。でも『自傷する自分から目を背けるな』と言われている気がした」。教育熱心な親にいつも否定されている気がしていた。岡田さんとメールで短いやりとりをして、撮影を承諾。撮影後、母親に初めて打ち明けた。「リストカットしている」。母親は大泣きした。
リスカする自分をもうやめたかったけれどやめられないでいた。それが止まった。「あれで何かが吹っ切れた」とふり返る。
アイトラッキング障害の原因
千葉県のフリーター山本純子さん(20)も作風の純粋さに胸を打たれた。自傷を始めて1年。学校でいじめられ、卒業後も職場の人間関係に悩んでいたが、1人で家計を支える母には言えずにいた。いらつくと、夜、腕を切ってしまう。「切ると落ち着いた」。「撮られることで何かが変われば」と協力を申し出た。
わかってくれる人がいる――そんな反応と対照的に、業界関係者は冷ややかだった。撮影は05年春に終わったが、出版のめども立たなかった。フィルムを眺める日々……。モデルと目が合うと「生きる理由を教えてほしいと真摯(しんし)に訴えるエネルギーに圧倒された」と岡田さん。
どうしても発表したいと送った写真が06年春、独立したての赤々舎の姫野希美(のぞみ)社長(41)の手に渡る。「人間そのものにここまで真剣に向き合った作品に驚き、出版を決めました」。装丁したデザイナー町口景(ひかり)さん(32)は「最初は正直引いた」という。「でも、社会に必死に問いかけようとしている姿に、同世代として俺(おれ)もやるぞ、と本気になった」
モデルになった山本さんはそのころも、不安定で食が細っていた。「出版を楽しみに、心の支えにして乗り切れた」。『I am』の作品は、受賞後、5月まで、新宿のセレクトショップ「ビームスジャパン」のショーウインドーに飾られた。山本さんはいま「リストカットという行為を世に出せたこと、作品に参加できたことを幸せに思う」と話す。
ただ、岡田さんは、「僕が伝えたかったのはリストカットではない。今の若者はそういう時代に生きているということ」という。「人はそこに存在するだけで美しくすばらしいことは、闇を直視しなければわからないんです」
秋に出す次の作品集の被写体は、妊婦や故郷の風景、花……。「これからも、答えの出ない『生きる意味』に少しでも近づきたい」(高橋美佐子)
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